ベルリンの壁崩壊の原因は言い間違い?

1945年、第二次世界大戦に敗北したドイツはアメリカを始めとした連合国とソ連の間に位置していたため、両国のバチバチの関係の矢面に立たされていた。その結果、ドイツは社会主義陣営である東側諸国が占領する東ドイツと、資本主義陣営である西側諸国が占領する西ドイツに分けて統治されることとなった。社会主義国ソ連に占領された東側諸国ドイツは、当然社会主義の考えを強制され、企業は国営化され自由に商売ができなくなったり、表現の自由が弾圧されたりと、あらゆる自由が制限されてしまった。

そのような弾圧により、西ドイツへの亡命が起こることは自然の流れで、1949-1961年の間に約200万人の東ドイツ住民が、西ドイツへと渡ることとなった。

東ドイツからすると国民が他国に200万人も移ってしまうことは到底容認できることではなく、1961年、その亡命対策のため西ドイツと東ドイツの国境沿いに有刺鉄線を設置した。その後、この亡命対策はより強烈なものとなり、同年、有刺鉄線→ベルリンの壁へと変化していく。

また余談ではあるが、第二次世界大戦後東側諸国と西側諸国に占領されたドイツは、東ドイツ内にあるベルリンも東西に分けて占領されていた。そのため西ベルリンは東ドイツに四方八方を囲まれている状況であり、ベルリンの壁も西ベルリンをぐるっと囲む形で設置される運びとなった。

 

話を元に戻すと、このようにベルリンの壁が建設され、西ドイツに逃げようとするものを射殺したりと激しい弾圧を行うも、亡命者は後をたたなかった。これほどまでに人の自由を追い求める姿勢は強く、気高いものであったのだ。しかし、東ドイツ側も亡命者の弾圧を緩めることはなかった。

 

この流れを変えたのが1989年のハンガリー民主化である。民主化された東側諸国のハンガリーは、隣国の西側諸国オーストリアとの間の鉄条網を撤去した。これにより、東ドイツは、観光と名を打つことで、東ドイツ(東側)→チェコスロバキア(東側)→ハンガリー(東側)→オーストリア(西側)の西ドイツ大使館→西ドイツ(西側)のルートを通ることで、合法的に西ドイツへと亡命することができるようになったのだ。俗に言うピクニック計画というものである。

 

これに対抗する形で、東ドイツは観光であればビザが必要なくなる、チェコスロバキアとのビザ協定を破棄し、東ドイツ民の隣国への移動も規制してしまった。これには東ドイツ民も大反発。これを受けて1989年11月9日、東ドイツは出国ビザの申請の緩和を発表することとなった。ただこの発表を担当した東ドイツの広報官は、ここで後に、世紀の言い間違いと語り継がれる重大なミスを犯す。「誰でも出国ビザを申請できる。」を、「誰でも出国できる。」と発表してしまったのだ。

 

これを聞いた東ドイツ民は、我先にとベルリンの壁に殺到し、壁を壊したり、よじ登ったりして越えてしまった。

ベルリンの壁崩壊である。

 

その後西ドイツへ行った国民たちは東ドイツではほとんどお目にかかれないバナナを食べ、夜には自宅に帰ったという後日談もあるが、何にせよ東ドイツ民は自由を手にしたのである。

 

このベルリンの壁崩壊の1ヶ月後、米ソ首脳会談にて、冷戦終結が宣言される訳だが、これを間近で見ていた人物がいる。

プーチン大統領である。

 

当時KGBのスパイとして、東ドイツに駐留していた彼はドイツのドレスデンにて、東ドイツがあっという間になくなる瞬間を目撃した。国というものの脆弱性を目の当たりした結果、現在の国民の手綱をしっかりと握っておかないといけないというプーチン大統領の考え方に直結しているのかもしれない。