④ロシアはいかにして大国となったのか〜レーニン帰還〜

第一次ロシア革命後に組織されたソビエトは、労働者を中心としたものであり、レーニンを軸とした共産主義勢力とは無関係であった。にも関わらず、革命を目指すレーニンも政府の弾圧の標的になり、スイスのジュネーブに亡命することとなってしまう。

 

しかし風向きが変わったの第一次世界大戦が始中の1917年二月革命の時である。これを共産主義革命の好機であるの捉えたレーニンはすぐにでもロシアに戻りたいと考えた。しかし、当時スイスからロシアに行くためには戦争中であるドイツを通る必要であった。通常であれば、ロシア人を乗せた列車を国内を通ることをドイツが許す訳はない。しかしドイツは、今レーニンをロシアに戻すと、奴はきっと革命を起こすだろう。そうなるとロシアは我々と戦争をしている場合ではなくなる。よし、特例でレーニンのロシアへの帰国認めよう。との考えに至った。このとき、スイスからロシアにレーニンを乗せて向かう鉄道は「封印列車」呼ばれ、レーニンは途中下車等は認められなかった。

 

ロシアに帰国したレーニンは早速、全ての権力をソビエト(評議会)へ、との考え方を示す「4月テーゼ」を掲げ、現在の立憲民主党を武力で制圧し、共産主義の革命が必要であると唱えた。一応ではあるが、ドゥーマも開設され、立憲民主党等の政党もできあがっていたため、より一層シビアに共産主義革命を起こすべきだという考えには国民も驚いた。

レーニンとは強烈なリーダーシップを持った人物であったのだ。

 

余談であるが、四月テーゼの「テーゼ」とは革命の戦略を示す言葉である。

 

このレーニン主導の共産主義革命により、各地の労働者や兵士らが武器を持って立ち上がり、ソビエト政権を確立する。1917年10月、ソビエト社会主義共和国連邦の誕生である(10月革命)。

こうなるとレーニンも戦争どころではなくなるため、当然ドイツとの停戦を申し出た。ドイツの狙い通りの結果となったのだ。

 

次回このレーニンによって建国されたソ連がいかにして崩壊していったのかを書いていく。

 

 

③ロシアはいかにして大国となったのか〜第一次世界大戦〜

第一次ロシア革命後の1906年、ニコライ二世が欽定憲法を定め、それに対して国民らの不満は募る一方であった。

そこで革命家達はそんな政府を打倒するため、各地で「ソビエト」という団体を作り始めた。ソビエトとは「評議会」という意味であり、現在の生時に対して不満を持つものの集まりであり、当然ニコライ二世はこの組織の弾圧を図っていた。

 

そのような政府と革命家達の硬直状態が10年ほど続いた後、1914年、オーストリア皇太子夫妻をセルビア人の男性が襲撃したことを皮切りに、世界は第一次世界大戦へと突入する。しかし、そう。戦争が始まると飢えてしまうのは多くの一般庶民達である。

そこで1917年2月、第一次世界大戦に対する反戦を唱える国民たちはペトログラード(ロシア語標記)(ドイツ語標記:サンクトペテルブルク)にて、「パンと平和」を求める運動(二月革命)を開始し、これを受けてついにニコライ二世は皇帝を退位することとなった。

 

余談であるが、この二月革命の「二月」とは、当時独特な暦を使用していたロシア内での月であり、メジャーな暦上では三月である。

 

この退位を受け、立憲民主党が発足されるなど民主化の流れをロシアも受けるわけであるが、ここに一石を投じたのがスイスのジュネーブに亡命していた、革命家のレーニンである。

次回はこのレーニンについて書きていきたい。

 

②ロシアはいかにして大国となったのか〜ロシア革命〜

前回に引き続き、ロシアの歴史について書いていく。

 

ピョートル大帝エカチェリーナ2世等、領土を拡大の方針を掲げるリーダーの存在によりロシアは国際社会におけるその影響力を高めていき、各国もロシアの動向には大いに注目していた。日本もその1つである。

 

ロシアの南下政策がついに日本の領土を脅かし始めた1904年、日露戦争に突入する。

しかし、戦争におけるしわ寄せは一般庶民に来るのが世の常である。そこで農民や労働者達はニコライ一世に対して、①農民の待遇改善、②労働者の権利保証をロシア正教の聖職者と共に主張し、デモを起こした。

余談であるが、このときロシアでは農民は「農奴」と呼ばれ、売買の対象であった。

 

しかしデモを起こした1905年1月、ペテルブルクの王宮に向かっていた庶民たちは、デモを鎮圧しようとするロシア軍からの発砲を受け、約1000人が犠牲となってしまう。この事件は「血の日曜日事件」と呼ばれ、武器も持っていなかった市民に対しての武力行使は、皇帝への信頼を没落させるには十分すぎた。

 

その結果、国内の様々な場所で反乱が起きてしまうこととなり、その内代表的な反乱が、水兵たちによる「戦艦ポチョムキンの反乱」である。当然であるが戦争中に、自国の軍隊による反乱が起きてしまうと、戦争どころではなくなってしまう。このように荒れた国内状況も判断材料の一つとなり、1905年9月、ニコライ二世は日露戦争の継続を断念し、同年10月には市民に対して、①市民の政治的自由を容認、②国会(ドゥーマ)の開設を約束した(10月宣言)。第一次ロシア革命である。

 

翌年1906年には憲法が制定されるものの、実はこの憲法、皇帝にとって非常に有利なものである「欽定憲法」だったのである。つまり、何一つ状況は変わっていなかった。これに対して、国民が納得する訳もなく、もちろん革命家達も黙ってはいない。

 

次回は、革命運動、そして第一次世界大戦を中心に書いていく。

①ロシアはいかにして大国となったのか

今の国際情勢の中心的存在と言ってもよい、大国ロシア。では、ロシアはいかにして大国となったのであろうか。

ロシアのルーツは9世紀に成立したキエフ公国であり、10世紀にウラジミール1世が、当時東西に分裂していた東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝の妹と婚姻関係を結んだことを足がかりとし、その領土を広げていった。また当時の東ローマ帝国ギリシャ正教が国教(西側はカトリック)であり、キエフ公国もそれに則る形で、ギリシャ正教を国教とした。

しかし、そんなキエフ公国を征服しようとする国が現れる。モンゴル帝国である。

 

1240年から1480年まで続いたモンゴル帝国の支配は、「タタールのくびき」と呼ばれ、モンゴルの支配により発展が妨げられた、という思いが込められている。

このときモスクワやキエフ辺りの領土は、モンゴル帝国のキプチャクハン国に支配されており、この国に認められたイヴァン1世はモスクワ大公国を築いた。キエフから新たにモスクワを中心とした、今のロシアにも通じる歴史が始まるきっかけである。

またイヴァン1世はモスクワを、第二のローマである東西分裂後の東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルについで、「第三のローマ」とし、私達はキリスト教本流を受け継いでいるんだ、ということを示した。

 

このモンゴル帝国支配の流れが変わったのは15世紀後半にイヴァン3世が、双頭の鷲(ビザンツ帝国の紋章を引き継いでいる。)をモチーフに、「我こそはツァーリ(皇帝)だ。」と主張し始めたことによる。これにより、後のイヴァン4世は正式に皇帝と認められた。

そしてロシアは、17世紀後半〜18世紀には大帝ピョートル1世が、18世紀後半にはエカチェリーナ2世がと、領土拡大を続けていった(ピョートル大帝即位より、ロシア帝国と呼ばれることが多い。ロマノフ朝とも呼ばれる。)。

ピョートル大帝の時代には、不凍港獲得のため、現在ウクライナ侵攻とも関係のあるアゾフ海、シベリア、そしてスウェーデンとの戦いで勝ち取ったバルト海に進出、そしてエカチェリーナ2世下においてはクリミア、オホーツク海に進出した。

余談であるが、バルト沿岸にサンクトペテルブルクという都市があるが、これはピョートル大帝の名前を冠した都市である。

 

このように歴史を学ぶと、戦争を起こす側の論理が多少なりとも見えてくる気がする。

次回もロシアの歴史について学んでいきたい。

キューバ危機はヤバかった

事の発端は東西冷戦下における、1962年キューバ上空を飛んでいたアメリ偵察機がとんでもないものを発見する。そう、核ミサイルである。それもソ連の核ミサイルだ。

 

元々キューバは1959年以前のバティスタ政権下においては、親米国家であった。サトウキビの産地であるキューバアメリカ企業が進出していき、両国の関係は非常に有効なものであった。しかしその後、革命家カストロバティスタ政権を打倒し、反米国家としてのキューバを成立させ、キューバ内のアメリカ企業を国有化してしまった。これに激怒したアメリカはキューバからの砂糖の買付をやめるという、経済制裁を行い、おそらく想定内ではあったはずなのだが、大口の外貨稼ぎ口がなくなってしまったことで、キューバはえらく困ってしまった。

 

そこにホワイトナイトとして現れたのが、ソ連である。ソ連キューバを仲間に引き入れようと、砂糖はわいらが買うわ、ほんでよかったら石油も安くしとくでぇ、と言って近づき、結果仲間に引き入れることに成功する。

 

この背景があっての1962年の核ミサイル発見であったため、このままではNYやワシントンに核が投下されるかもしれない、攻撃される前にキューバを占領した方がよいのでは?という軍内部の声を鑑み、当時の大統領ジョンエフケネディは、核戦争に向けて世界各国の米軍基地に緊急対応準備を呼びかけた。

 

このキューバ対応として、1962年10月22日、ジョンエフケネディキューバ海上封鎖することで、全ての核ミサイルがキューバに運び込まれることを阻止しようとし、その以降をテレビ放送にて、全国民に伝えた。

 

アメリカは広島長崎に原爆を投下した経験から、核の恐ろしさを最も知っている国の一つであるため、このときの緊迫は相当なものであったことが推察される。

 

10月27日には、キューバ上空を偵察していたアメリカ機が撃墜され死者も出たことにより、さらに緊迫した状況になっていく。

 

余談であるが、このときキューバ近海にいた核魚雷持ちの潜水艦の艦長は、幹部より核戦争が始まったらキューバを包囲しているアメリカ軍艦隊を一掃するため、核を打てとの司令を受けていた。そんな矢先に、潜水艦を発見したアメリカ船はソ連潜水艦に向けて浮上を促す、爆雷を投下して警告。この爆撃による振動を核戦争勃発によるものと勘違いした艦長は核を打とうとするものの、一旦状況を見ようと副館長に制止され、事なきを得たというエピソードもある。それぐらい、いつ核戦争、第三次世界大戦が起こってもおかしくない状況であったのだ。

 

しかし、核戦争はお互いの国だけにとどまらず、地球の存続に関わるため、両国ともできれば避けたいのは当然である。そこでケネディソ連フルシチョフ首相に向けて書簡を送り、アメリカがトルコに設置した核ミサイル設備を撤退させる代わりに、キューバのも撤退してほしいという交渉を呼びかける。

 

この交渉に応諾したフルシチョフは、手紙では遅すぎて、待っている間に核戦争が起こってしまうかもしれないと、すぐに国営放送にてキューバからの撤退を指示し、それを監視していたアメリカ側もそれを受けてトルコから撤退し、キューバ危機はなんとか事なきを得たのだ(このときの教訓から、後にホットラインを設置することとなる)。

 

 

 

 

 

 

 

ベルリンの壁崩壊の原因は言い間違い?

1945年、第二次世界大戦に敗北したドイツはアメリカを始めとした連合国とソ連の間に位置していたため、両国のバチバチの関係の矢面に立たされていた。その結果、ドイツは社会主義陣営である東側諸国が占領する東ドイツと、資本主義陣営である西側諸国が占領する西ドイツに分けて統治されることとなった。社会主義国ソ連に占領された東側諸国ドイツは、当然社会主義の考えを強制され、企業は国営化され自由に商売ができなくなったり、表現の自由が弾圧されたりと、あらゆる自由が制限されてしまった。

そのような弾圧により、西ドイツへの亡命が起こることは自然の流れで、1949-1961年の間に約200万人の東ドイツ住民が、西ドイツへと渡ることとなった。

東ドイツからすると国民が他国に200万人も移ってしまうことは到底容認できることではなく、1961年、その亡命対策のため西ドイツと東ドイツの国境沿いに有刺鉄線を設置した。その後、この亡命対策はより強烈なものとなり、同年、有刺鉄線→ベルリンの壁へと変化していく。

また余談ではあるが、第二次世界大戦後東側諸国と西側諸国に占領されたドイツは、東ドイツ内にあるベルリンも東西に分けて占領されていた。そのため西ベルリンは東ドイツに四方八方を囲まれている状況であり、ベルリンの壁も西ベルリンをぐるっと囲む形で設置される運びとなった。

 

話を元に戻すと、このようにベルリンの壁が建設され、西ドイツに逃げようとするものを射殺したりと激しい弾圧を行うも、亡命者は後をたたなかった。これほどまでに人の自由を追い求める姿勢は強く、気高いものであったのだ。しかし、東ドイツ側も亡命者の弾圧を緩めることはなかった。

 

この流れを変えたのが1989年のハンガリー民主化である。民主化された東側諸国のハンガリーは、隣国の西側諸国オーストリアとの間の鉄条網を撤去した。これにより、東ドイツは、観光と名を打つことで、東ドイツ(東側)→チェコスロバキア(東側)→ハンガリー(東側)→オーストリア(西側)の西ドイツ大使館→西ドイツ(西側)のルートを通ることで、合法的に西ドイツへと亡命することができるようになったのだ。俗に言うピクニック計画というものである。

 

これに対抗する形で、東ドイツは観光であればビザが必要なくなる、チェコスロバキアとのビザ協定を破棄し、東ドイツ民の隣国への移動も規制してしまった。これには東ドイツ民も大反発。これを受けて1989年11月9日、東ドイツは出国ビザの申請の緩和を発表することとなった。ただこの発表を担当した東ドイツの広報官は、ここで後に、世紀の言い間違いと語り継がれる重大なミスを犯す。「誰でも出国ビザを申請できる。」を、「誰でも出国できる。」と発表してしまったのだ。

 

これを聞いた東ドイツ民は、我先にとベルリンの壁に殺到し、壁を壊したり、よじ登ったりして越えてしまった。

ベルリンの壁崩壊である。

 

その後西ドイツへ行った国民たちは東ドイツではほとんどお目にかかれないバナナを食べ、夜には自宅に帰ったという後日談もあるが、何にせよ東ドイツ民は自由を手にしたのである。

 

このベルリンの壁崩壊の1ヶ月後、米ソ首脳会談にて、冷戦終結が宣言される訳だが、これを間近で見ていた人物がいる。

プーチン大統領である。

 

当時KGBのスパイとして、東ドイツに駐留していた彼はドイツのドレスデンにて、東ドイツがあっという間になくなる瞬間を目撃した。国というものの脆弱性を目の当たりした結果、現在の国民の手綱をしっかりと握っておかないといけないというプーチン大統領の考え方に直結しているのかもしれない。