②ロシアはいかにして大国となったのか〜ロシア革命〜

前回に引き続き、ロシアの歴史について書いていく。

 

ピョートル大帝エカチェリーナ2世等、領土を拡大の方針を掲げるリーダーの存在によりロシアは国際社会におけるその影響力を高めていき、各国もロシアの動向には大いに注目していた。日本もその1つである。

 

ロシアの南下政策がついに日本の領土を脅かし始めた1904年、日露戦争に突入する。

しかし、戦争におけるしわ寄せは一般庶民に来るのが世の常である。そこで農民や労働者達はニコライ一世に対して、①農民の待遇改善、②労働者の権利保証をロシア正教の聖職者と共に主張し、デモを起こした。

余談であるが、このときロシアでは農民は「農奴」と呼ばれ、売買の対象であった。

 

しかしデモを起こした1905年1月、ペテルブルクの王宮に向かっていた庶民たちは、デモを鎮圧しようとするロシア軍からの発砲を受け、約1000人が犠牲となってしまう。この事件は「血の日曜日事件」と呼ばれ、武器も持っていなかった市民に対しての武力行使は、皇帝への信頼を没落させるには十分すぎた。

 

その結果、国内の様々な場所で反乱が起きてしまうこととなり、その内代表的な反乱が、水兵たちによる「戦艦ポチョムキンの反乱」である。当然であるが戦争中に、自国の軍隊による反乱が起きてしまうと、戦争どころではなくなってしまう。このように荒れた国内状況も判断材料の一つとなり、1905年9月、ニコライ二世は日露戦争の継続を断念し、同年10月には市民に対して、①市民の政治的自由を容認、②国会(ドゥーマ)の開設を約束した(10月宣言)。第一次ロシア革命である。

 

翌年1906年には憲法が制定されるものの、実はこの憲法、皇帝にとって非常に有利なものである「欽定憲法」だったのである。つまり、何一つ状況は変わっていなかった。これに対して、国民が納得する訳もなく、もちろん革命家達も黙ってはいない。

 

次回は、革命運動、そして第一次世界大戦を中心に書いていく。